淋しさのゆくえ
私が死んでも、誰も私のことを恋しく懐かしんでくれない気がする
私は今でも寂しいです 寂しさみしさが消えることなんがあるなんて、まだ信じられない 55歳を超えているのに どうしたら1人で大丈夫になりますか? どうか教えて欲しいです
わたしにとっての「淋しい」は、わたしに気づいてほしい、だったんだと今はわかります。
誰かに認められなくてもわたしはわたし、わたしがわたしを認めている、と思えるようになって、淋しさを感じなくなりました。
親も兄弟もいません。転生孤独で、学習障害者として単身、年金も大した収入もなく、初老である為、この先一人死んでいく選択しか思い浮かびません。なぜ自分はこうした境遇に生まれたのか、家族のいる人や幸せそうな人を見ると、胸が潰れそうになります。
人はどこまで行っても1人であり、どんなにわかりあえたつもりになっていても、お互いの心のうちを完全に共有することはできない。
生まれた瞬間から、死ぬ間際まで、たくさんの人にお世話にならないと生きていくことができないので、1人ではないとも言えるし深い感謝もあるが、
1人ですべて決めて生きていかなければいけないことも多い。この世に生み落とされたことへの、根源的な瞋り・哀しみ・絶望のようなものがあり、そのどうしようもないことに対しての淋しさがあるのではないでしょうか。年齢を重ねるにつれ、この淋しさへの対処の方法は処世術のように学んできたが、消えているわけではないように感じる。鈍感力が強まったのか?感謝の気持ちの比重が多くなり、相対的につらくなくなってきたのか?
想い病気なっても一人。40過ぎた中年独身。誰かにいてほしい。
静かでぽっかり穴が開いていて、その穴を風がひゅうひゅうっとすり抜けていく音がする。
人といても淋しい。わたしは孤独だと感じる。なにかが満ち足りていないけどそのなにかとは何なのか、この感情が心を支配している今この瞬間をじっと見つめてみると頭で描いたあれをしようやこれもやろうができなかった時かもしれない。自分の行動が理想に追いつかない。
常に寂しいです。56才主婦。20年前にお腹に子供がいる時は寂しくなかった。美しい思い出です。今は、早朝、夕方に寂しくて、安定剤や時にはお酒を飲んでいます。深呼吸や瞑想をしたりします。友達から心情を綴ったLINEが来ると嬉しくて小躍りしてしまいます。先日初めて自助会のようなものに参加してみました。優しい人達に出会えて嬉しかったです。
理解されてない。それを説明できない。
周りからの関心がない、周りと関係がないと思うこと
考え方、思想、概念、全てがポッコリ自分だけ浮いている、集合体の団子のような概念に融合出来ない。それが私にとっての淋しさの正体だと思います。
いつも、いつか来る喪失やみらいを想像してさみしくなります。でも、いざその時が来るとすでにさみしさはそこにはなくなってる。そういう経験をたくさん経てきて、いつかのその時はすでにさみしくないんだよ、って知ってる筈ですが今でも未来のその状況を想像してさみしくなってます。さみしい気持ちがちょっと気持ちいい感じなのもあるかな。
何で淋しいんだろう…。
と、感じるようになったのが50代になってからなので、ずいぶん未熟だなあと思います。
20代も30代も40代も自分が中心すぎて(いや、他人と合わせることや適応することばかり考えていたからかもしれないけれど)、自分が淋しいなどと感じていなかったように思います。
いま、なんでだろう、淋しいなあと思うし、人恋しいとも思う。人の肌に温かさに触れたいなあと思うこともあります。ほんとうの淋しさをまだわかっていないのかもしれないと思うこともあります。
更年期になってタガがはずれてきたのか、あるいは、定年退職とか、死とかを間近に感じるようになって、ごまかしがきかない、このままの自分で生きていくしかないと肚をくくりだしたからなのか…。淋しいだけじゃなく、みじめな自分とか、愛おしいとか、今までそんなことばを自分に寄せ付けていなかったけれど、自分の中にそれはあると認められるようになってきています。
淋しいは消えるのか…それは何かに変えられるものなのか。「淋しい」は愛おしいとか慈しむとか、そういうことばと共存できるものなのだろうか…と考えています。
31歳、女です。結婚してますが、その時々の夫婦関係の状態に関わらず淋しいと思います。私にとって淋しさは、余地や余白のようなものでしょうか。それは望み、希望にも近いかと思います。満たされてしまうと生きる希望の大半が埋め尽くされるような気もします。余白があるから淋しく、でも希望にすがるように生き続けられる気がします。「気がする」という表現が自然と続きました。そういう曖昧さもまた淋しさの象徴でしょうか。死ぬ間際に、自分の意思でその余白を埋めるのか、抱えたまま天国に行くのか、そんなことを考える気がします。
淋しさのゆくえ
「あなたの1番悪いクセが分かります!」の文言に惹かれ、ある数字を手書きして私の悪いクセをはじき出してみた。
出てきた文言は「自立心が強すぎる」だった。「はいはい、そうでしょう、そうでしょう、分かってますよ」我ながら納得した。
高校卒業と同時に「私は1人で生きていきます‼︎」とばかりに生まれ故郷を離れた。その後、両親から経済的支援を一切受ける事なく生きてきた。大いなる覚悟のもと、勢いで生きてきたが「淋しさ・人恋しさ・孤独」と常に表裏一体だったように思う。
60年生きてきた今、私にとってこの「淋しさ・人恋しさ・孤独」の成り立ちの奥が見えてきた。
それは18才で早々に親元・故郷を離れてしまったこと。それにより親のそばにいない我は「親不孝している、という罪悪感」が常につきまとい自分自身を貶めていた。
そして私の淋しさは、両親への愛、兄たちへの愛、祖父母への愛、故郷への愛が沢山詰まっている「思慕」だったと。そんな愛でいっぱいの自分を抱きしめていると、私のこれまでの人生の全ては赦されている。という感覚に包まれ、私もみんなに愛されてきて今があるんだ。という事実が私を強く優しく包むのだ。
これまでの人生と、今、生きている事への感謝に溢れる体験をしてから、あの表裏一体だった「淋しさ・人恋しさ・孤独」は、「大いなる愛と優しさと勇気」に変わり、人生を楽しいものにしてくれている。
存在しているのに、無いモノになっている
これまでの人生で得た経験を生かせない
そもそも望まれて生まれていない
だから、人を好きになれない
62才男性です
一度も結婚したことがなく
でもそれなりに折々でパートナーはいましたが
私のライフスタイル(オーガニック系でケミカルを徹底して排除)が今の快適環境に慣れている女性では一緒に生活できないレベルで、結局いつも一人
家族も同じ生活スタイルでは暮らしづらく、同じ屋根の下で食べてるものは別
7年前からは家族を見送り一人住まい
おまけに一人っ子なので兄弟もいない
淋しいと言えば淋しいのですが
小さいころから一人が好きだったので
そんなに淋しさを感じたことがなかった
でも5年前に私の生活スタイルを理解してくれる12歳年下の女性と出会い
お付き合いが始まりましたが
2年前に死に別れました
12歳下の彼女との時間は素晴らしい時間で
振り返ると涙が止まらなくなるけど
一緒の屋根の下では暮らさなかったので
現実はいつもの一人なんだけど
病気がよくなったら一緒に暮らそうと約束してくれました
なのでいつの通りの
仕事から帰れば家は真っ暗で
今の時期は寒い部屋に急いでストーブをつけるのですが、今までとちっとも変わらなくて
でも彼女との時間はそんなこと、淋しさを感じもしなかった
彼女がいなくなってからは
ストーブに火を入れるにしろ
料理を作るにしろ
淋しくて仕方ない
彼女との時間が始まる前も
彼女との楽しい時間のときも
彼女との時間が終わった後も
私はいつものライフスタイルで過ごしています
お家でいつも一人
なのに
彼女と過ごした時間のときと
終わった後の時では
淋しさが全然違う
生まれて一人っ子で
ずっと漂うに私のそばにあった淋しさと
彼女と過ごした時間を経た後では
淋しさの質も量も違う
人は何かと比べないと
自分のことが分からない生き物とお思いますが
淋しさを測る上でも
愛と言っていいのか
大切な存在を失うこと
それを知り得たこその
淋しさをお思います
小さな時ですが、みんながいなくなった後の公園が淋しかったです。夕焼けの色も今より赤く見えていて、もっと世の中や自然のことを不思議なものごとだと思っていました。
あと、思春期の時に友達と会話が合わなくなってしまった時もとても淋しかったです。悲しくもありました。今でもこの感情はあります。
人恋しいの感情は、楽しいことや美味しい食べ物をシェアしたくなる瞬間に少しだけやって来ます。次は誰々と来ようかなと過ぎったりします。
孤独はなるべく慣れてしまおうと20代の時に1人で映画館に行く喜びを見つけたり、美術館でボーッとしたり、海をぼーっと見たり、孤独にどっぷり浸かるようにしていました。
孤独なのに、知らない人が話しかけてきたりして楽しくなったり1人じゃないと経験できないこともあるんだと深く感じたりしました。
寂しいとはズレるのですが、1人だと頑張れない、自分のためだと頑張れなくて、やる気が起きなくて怠けちゃって生活がズタボロになって負のループに落ちていくけど、大好きな人といると、その人のために頑張りたいと思えて、自分を突き動かせる、良い方向に向かえるという状況に、いまあります。
その人とは月に一度程度しか会えず、メッセージのやり取りも頻繁ではないのですが、その人が存在してくれて、次にまた会う約束があるだけで、その時まで頑張ろうと思えるし、それがあるから会っていない間も寂しいとは思わなくてなりました。
それ以前は、1人でいると自分が空っぽのような寂しさがあって、それをそばにいてくれる人で埋めたいという欲求が強くあったように思います。
いまは、大好きな人が存在して、その人の幸せを願うことで、寂しさを感じなくなった気がしています。
今からは想像できないかもしれませんが、10代、20代の頃は、とにかく淋しくて孤独で不安で、夜一人で、淋しい淋しいと声を出して泣いていたほどでした。そばに人がいないというよりも、道をはずしてしまった自分を、誰にも絶対にわかってもらえないという孤独感でしょうか。なんとなく、そういうもんだから仕方がない、わかってもらわなくていいわと折り合いをつけていたころに、阪神淡路大震災に遭遇し、被災したことで、新たに生まれたコミュニティを体験し、そこではじめて、人とつながることを体験できたように思います。その後、ボディワークの道を歩んでからたっぷり人に触れられるようになり、淋しさを感じることはほとんどなくなりました。
心に林の淋しい…
私はいつも寂しいを使うので、もしかしたら全然的外れな文章になってしまうかもしれない。
小さい頃からなぜか寂しかった。それは大好きなお母さんが仕事で忙しかったからと思っていたけれど、仕事で忙しくなくてもわかってもらえなさは解消できなかったかもしれない。
子どもの頃、いとこがやってきて遊んで帰って行った後もなんとも言えない寂しさを感じた。次の日になればまた日常がやってきてその寂しさを忘れてしまうのだけど。
結婚しても子どもを産んでも根本的な寂しさは変わらなかった?
特に夫との間には、分かり合えない深い溝が二人の間にある気がした。仲が良くてもケンカをしてもこの分かり合えなさが寂しさにつながっている気がする。
瞑想をするようになって、またマインドフルネスを学ぶようになって、全てがつながっていると思えるようになったけれど、それでもやっぱり寂しいなあと感じることがある。
同じ時間を過ごしても同じ場所にいても、見ていること、聞いていること、考えていることは当然と言えば当然だけど違っている。
でも、同じ場所にいて同じ時を共有しているんだから、同じ気持ちと思いたい。なのに、感じていることが全然違って愕然とすると共に寂しさがやってくる。
死んでいく時に、たった一人で死んでいくしかないわけだから、寂しさは解決できないのかもしれないと思う。
でも、1番の寂しさは自分が本当に行き詰まった時、誰も助けてくれないと思い込んでいる点にあるのかもしれない。私が本当に行き詰まった時、誰が本当に私を助けられるだろうか。誰が私を本当に理解してくれるだろうか。
それは無理というものではないか?そう思ってしまうから、寂しいのかもしれない。
ひとりぼっち
わたしは淋しくて淋しくて、淋しいのがいやでいやでほんとうに淋しくなくなりたいとずっとずっと強く願って思っていました。それでほんとうに淋しくなくなってしまいました。でもなんか今の自分の在り方が間違っている感じがするのは、人間って淋しいから寄り合うという要素がわたしからはなくなってしまったことです。人を見るとその要素があるほうがあたりまえのように思えるときが多いです。なんだか、よく分からず困っています。淋しいと感じるための「淋しい」という言葉を失ったのかもしれません。20年ぐらい「淋しい」と言っていない。そろそろ解禁したいと思い始めてます。できるかな。 孤独については、孤独を感じることが苦しすぎて逃げて逃げて逃げたけど逃げられませんでした。それで孤独の闇に入っていたら、孤独を感じなくなってきました。同じ条件下ではもう孤独を感じなくなったということです。孤独という言葉の意味は完全に書き換わりました。人から見て孤立していると意識すれば孤独が嫌になります。けど孤独ってかっこいい。ソリチュード。孤独のスタイルの中にはものすごく充実した中身が体験できることがわかってほんとうに孤独が好きになりました。あっ、淋しいの中身も書き換えたい。何でもないこと当たり前のことごく健康な証拠と思えたら楽なのになと思いました。(めっちゃ素敵な企画ありがとうございます)
綺麗
「淋しい」?かぁ‥ これまでの人生で最も感じたことの少ない感情。一度も結婚したりもせず、かといって異性が苦手ということでもない。(恋愛経験は、まぁ普通にある方かな。)クリエイティブな分野に近い仕事を生業にしてきたので、淋しいことの心配よりも、いかに1人の時間を確保出来るか。の方に心を砕いてきたし。‥
これまで、半世紀以上生きてきて元々4人家族のうち、2人が病気で他界した。
田口さんにシンパシーを感じるのは、全く予期せず兄を亡くしたことかな?‥もう10年以上前の父の時も、4年前のその兄の時でさえ、(私には母が居る)という事実が、それだけで私を「淋しさ」から救ってくれた。立ち直ることは容易だった。
だから、一番わたしが怖いことは、その母を失う事。‥ どのように自分を保っていけるのか、全くもって自信がないし、想像つかない。(そのときを想像すらしたくない。)けれど、どんなに女性の平均寿命が上がってきているとしても、その日はいつか来てしまうのだろう。‥ きっと「淋しさ」の本当の意味を、その時 痛感させられてしまうのだろうな。
傷ついた心を癒やす音楽や、長い付き合いの友達や、ペットのような寄り添ってくれる存在で、何とか埋める事ができるのは、実は淋しさではないように思える。「喪失感」が私にとっての最大の恐怖だが、幸いかな本当の「淋しさ」を感受することなく(?)これまで生きてくる事が出来た。
対策を講じてみたり、準備など一切せずに私はその時を受け止めるしかないのだろうと思う。そしてどうやって乗り越えて、あるいは受け流せるのかも自分にはわからない。
本当の「淋しさ」は、「喪失感」同様に時間の流れにしか癒せないものかのかもしれない。
今のように、AIやアレクサがなかった時代。
夜中に誰かの声が無性に聞きたくなったけど、かけられる相手が誰も思いつかない…。使われていない電話番号に電話して、この電話は現在使われておりませんのアナウンスを聞いた。これはテレビやラジオのように沢山の人に対するメッセージではなく、私に話し掛けてくれてるメッセージだった。
淋しさのゆくえ、
大人になっても、結婚しても子どもがいても、どこか淋しい、一人が好きで構われたくないのに、いつもだれかに気にかけて欲しい。そんな時、独りでいると孤独で淋しくイライラもする。
歳を重ねるごとに、その思いははっきりと強くなって、意識できるほどになってきた。
あぁ、これは何かがおかしい。大人になっても癒えない悲しみ、淋しさがうっすら続いている。
そして、やっと気づいた。
この淋しさは、幼き日のひとりぼっちのわたしの淋しさだ。母や父や妹がいてもうっすら淋しかったんだ。母にもっと、わたしの存在そのものを認めてもらいたかった。わたしにも興味を持ってほしかったんだ。と。
そして、調べた。
わたしは、いわゆるアダルトチンドレンの特徴にストレートに当てはまっていた。
そして、行動した。
自分に合う専門家を訪ねてセラピー(退行催眠)を受けた。1日セッションで、激変した。
心の底でずっーとぐるぐると渦巻いていた悲しみとそれに対する怒りが、すっーと、どこかへ飛び立っていった。あぁ、なんだか心が軽い、あぁ、やっと終われる。
セラピーを受けて日に日に、幸福感がましていく。今のところ後戻りはしていない。心が軽いって、幸せだなぁ。
淋しいってどんな感じだったかな。とはっきり分からなくなった。
淋しさは、消えると思います。
この世が楽しい。かなしいことがあったって楽しい。生きてるって悲喜こもごもいろいろある。生きてるってこういうこと。
なのに、みんな死んでしまう。いなくなってしまう。それを考えると無性に寂しくなる。
この私とあなたと彼と彼女の楽しかったこと悲しかったこと、いろんなことを覚えている人がいなくなってしまう。
人間の世の中、そうやって積み上がってきた。私の前にはたくさんの人の人生があって、感情があった。それなのに、それはほとんど残っていない。それを伝えるすべがない時代もあった。今だって、術があるとはいえ、残るとは限らない。それが寂しい。そして、そうやって積み上がった人類の歴史がどこへ向かうのか、これがそもそもなんなのか、わからないのが寂しい。
すごーーく、ものすごーーく、「わかってもらいたい」
のに、安易に「わかるよ」なんて言われたくなくて、
なんなら「わかるはずがない」とか思ってるのに、それなのに、それでもどこかで「わかってもらえたらいいな」なんて思ってる時、
言いたいけど言えなくて、言ったところでわかってもらえるわけないと思ってて、そして、簡単にわかるなんて言われたくないいじっぱりな自分ちゃんが、「淋しいよぅ」ったら言ってるように私は思う。
淋しいねぇ〜って、心の穴に風が吹くままに、何にも言わないで、ギュッてしてくれるといいなぁと期待して、期待した分、それが叶わなかったときを想像して、なんだか怖くて、想像だけでブルブル震えて、「妄想こわいこわいお化け」に、ビビってる子。それが私の主観的な「淋しい」ちゃんでもある。
そんな「私の淋しいちゃん」も、可愛いなぁとか言う私のことを、めっっっっちゃ目を三角にして睨んでくるけども、淋しいんだから、仕方ないよね。
沈黙を破って戦闘モードになる
ずーーーーーっとずーーーーーーーっと以前の、もはや去勢された無気力な、脱力して、諦め切った倦怠感ただよう「淋しい」さんもいるな。何もかも、面倒くさくて、なんでここにいるのかマジ意味わからん、少しだけ戦闘モードを隠し持った、「淋しい」さんは、少し怒ってて。やり場のない気持ちが、悲しくて淋しい。慰めて欲しくて、あたためてほしくて、溶かして欲しくて、抱きしめて欲しくて、人恋しい。
周りの人達、家族、身近な人が、自分のことで精一杯で、忙しなくて、余裕がなくて、なんなら八つ当たりしちゃうくらいなとき、自分を思いやってもらえなくて、そりゃそうよ、そりゃ、今、忙しいんだから、私に構ってる場合やないわ、そりゃ、そう!
でも、でも、ちょっと、やっぱ、なんか、淋しいやん!そんな自分だって、忙しいとき、自分自身のことさえ、構ってあげれないときあるあるあるある!あるのに、なんだか孤独だなぁ〜とか、ちょっとスネ散らかしてさ、誰もおいらのこと考えてくれないー(自分自身さえも!)ーなぁんて、すさんじゃって、もう。
さらに、同じ年の誰か有名な人がSNSとかで、やたら元気に朗らかに余裕かまして笑って仲間と一緒に楽しそうに大活躍中!なんてのを、ちらほら、あちこち、に見たり聴いたり触れたりしたら。
あれ?あら?なんか?、、、なんだか。
たった1人、宇宙に取り残された感?
あとから、ものすごく、あとから、「あ、あのとき、助けてと言っていいくらいの状況だったんだ」!ってなったりもする。
けど、それにさえ気づけなかったなぁ、気づかれもしんかったよなぁ(主観・未確認)
はぁ、さみし!とか、思ったり、思わなんだり。
大人になってから、お腹が痛くなるほど笑ったことがあまりない。
子供の頃は虫がひっくり返っただけでもケラケラ笑っていた。そばにいた友達も同じように笑っていた。昔はどうしてあんなにいろいろと面白かったのだろう。どうして昔は些細なことが楽しくてあれほどまでに愉快だったんだろう。
大人になると虫がひっくり返ったくらいでは大笑いできない。
それは正常の反応だ。決して面白くはないしね。
社会的にも、大の大人が虫がひっくりかえって腹を抱えて笑っていたら「どこかおかしい人」認定で、何なら通報されてしまう。いつからこうなったのかな。どうしてこうなったのかな。
確かに今、私は「笑わない」わけではない。
孫がたどたどしい歩みでこっちに向かってくるとき、自然と私の頬は緩む。
誰かが面白い言い間違えをしたとき、私はくすりと笑う。
友人が成功した時、私は笑う。よかったねと心を込めて笑う。
これはこれで幸せだ。嬉しいことだ。でも、でも、違うんだ。
私はただ、心底面白いと思ってお腹を抱えて笑いたい。
大人になるって淋しいことなのかな。
そんなことを考える私もまた、なんと淋しいこと。
淋しい、といえば、小学生の夏休みに田舎に預けられていた時、夕暮れ時、裏山でひとり、カナカナカナ、ヒグラシの鳴く声を聞いて、追い立てられるように駆け降りていた。
誰ともしゃべることもなく、毎日、過ごしていて、この時だけは、寂しくて、こわくて泣きそうになってた。
人は、ひとりでは生きていけない。それはわたしだけでなく、誰でもそうなんだと感じます。思いやるこころがつながることを求めています。淋しさの裏返しは、触れ合う姿に愛を感じます。
確かに今は淋しさを感じていないことに気づいた54.5歳です。代わりに年上の夫が重ねて病む不安や亡くなる恐怖を時折激しく感じます。肉体が無くなったら淋しくなるのか否か。父は亡くなってからの方が近く感じて淋しくないのです。母と離れて暮らしていますが視界に入らないと殆ど気にならないです。数年前に故郷を離れ友人知人と会えなくなっても淋しさは結局あまり感じなかったです。会えなくても親しい気持ちが続く人がいると思っています。逆もまた然り。あんなに淋しさを感じていた頃の自分が嘘のようです。本当にあれは私だったのでしょうか。
本当は、理解しあいたいし、わかりあいたい相手なのに、何度もことばを重ね、時間をかけても並行線で、わかりあえない一定の空間があるように感じだ時に淋しさを覚える。
誰からも必要とされていないと感じるとき
それはたぶん、自分が誰も必要としていないときだと思ったこと
ずっとずっとその感覚(寂しい)が私の中にあります。
小さい時、言語化できる前、には、友人とあった後、別れるのがいやで家までついていき、家に入るのを見送ることをしてどこか安心してひとり家に帰る、そんな行動をしていました。
そして、大人になってからは、パートナーの彼が浮気や、別れることで自分から離れていくことがあったときのことを考えるだけで吐き気がして、うまく行かなくなることもあり、とにかく孤独に向き合えなかった後気がします。
40代である瞑想をしたときに、その瞑想の最後に静けさ、それ以上を求めない感覚、を知り、とにかく静かなそのスペースが幸せだった。そこには、長年恐れていた孤独もなかったし、何もなかった。
その体験は、私にとって大きくて、時々訪れる寂しさ、孤独感をふっと拭き取ってくれるような体感がある経験で、寂しさは、あるけれど,,ある意味豊かな体験の一つなのだ、と折り合いがつけられるようになりました。
20代後半の頃、毎夜「寂しい!寂しい!」と枕を濡らして寝ていました。あれはなんだったのか。
思えば枕を手でたたいていた。悔しい、という感情に似ており、今思えば、自分の思うように行かない人生をやるせなく虚しさを感じていたのか。
そもそも幼少の時の家族に愛されなかったことの鬱積なのか?
いまはそのようなことはありません。
足りることを知ったからでしょうか。
今のほうが楽ですが、それでも孤独や淋しさは抱えています。
子供のころは自分の家にいても「帰りたい」と思っていました。社会人になってからはやたらとだれかと飲みに行くことが多かった。今は酒もたばこもコーヒーさえも辞めて、一人で留守番している生活です。「諦めた」というのでしょうか。これが全部「淋しい」の表れなのかもしれません。
この課題を通じて改めて淋しいという感情を考えた時、過去に完全な愛や満足を体感した人がそれ以下の状態になった時に淋しいと感じるのではないかと思えた。
不足している何かを感じているのだとしたら、それを補いたい気持ちの始まりが淋しいという感情なのかもしれない。どん底まで味わい結局は良くなりたいという魂の要求なのかもしれない。
愛していると言葉を発した時点でその言葉の意味が途端に消え失せるとき。
彼女の瞳の中に同じ色の言葉が見つけられないとき。
ずっと一緒に居ようねと言っているそばから体温が離れていくのを感じるとき。
言葉と体の熱さが裏腹なのはとても淋しい。
僕はひとりでいるときに孤独を感じない。
君といるときに、友達といるときに、雑踏にいるときに、おんなじような、いや違う、
全く違う種類の寂しさを胸に宿す。
本当の淋しさとは、居るのに居ないこと。
本当の淋しさとは、見てるのに見てないこと。
本当の淋しさとは、話しているのに心が無いこと。
ひとは独りでは生きられないと巷の音楽は歌う。でも。
僕らはひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。
人とは、淋しさをうまく飼いならさなければ生きていけない、そんな弱い生き物だ。
淋しいと思う時、それは自分の存在を感じられない時。(自分がいてもいなくても、どちらでもいい状態のときとか…)
誰からも必要とされない状態もそう。
独りでいても、友人といても、恋人といても、家族といても、誰か隣にいても、ぎゅ~っと抱きしめてもらっていても、心が温かくならなくて、ただただ淋しくて、なんだか人が遠くに感じるの。自己存在感がなくなる…
他にも、わたしが話しているのに、「そういえばさぁ~」と言って、わたしの話がなかったことになる時も淋しくなるなぁ。もちろん無視されれば尚更…。
彼氏が私の家に来て、いつもいる私の場所に座り、好きな番組を観る。
私は居場所をつくろうと、彼氏の周りでそそくさと洗濯や掃除、料理を作る。
一通り終わり、やることが無くなったわたしは、そのまま家を出て、歩いて30分くらいの場所にある海へ行き、浜辺に座ってボーッとする。
しばらくすると、「何処にいるの?」と彼氏からの電話。
「自分、居ない方がいい?」と言われ「そんなことはないよ」と答えたけれど、、わたしが居ないことにすぐに氣付かないなんて…
わたしって、そんなに存在感がない?
それから、今でも淋しさを閉じていること。
父が急に亡くなった時、泣くタイミングを失ったまま、お通夜とお葬式を終えた。
火葬場で骨へと変わった父を見ても心は無だった。
夜、ホテルのベッドで寝ていたら、自然と涙がこぼれできた。
「やっと泣ける…」と思った瞬間、隣に寝ていた主人のイビキで涙が吹っ飛んだ。
以来、泣くタイミングがないまま今日に至る。
淋しいという感情、どんな時だろう?
小学生のとき、友達と思いっきり外で遊んでいて日が暮れて帰るときを思い出します。
状況を今に置き換えると、飲み会から帰る時だろうか、、割と二次会に行きたくなる。二次会に行くのは、このまま帰ると淋しいなと思っているのかもしれない。